彼女の福音
肆拾 ― 鏡よ鏡 ―
「にしても珍しいな、柊がうちにくるのって」
朋也は笑いながら、急須にお湯を入れた。智代がここにいるのなら、「朋也、お湯は沸騰してからすぐに入れるべきじゃないぞ?」と注意するんだろうけど。というか、あたしならすぐさま「朋也、それダメだから。あんたって、智代がいないとお茶出しも一人でできないのね」とか言う。というか言いたい。言い詰めたい。小一時間言い詰めたい。
「あの、智代さんは?」
「ああ、今買い物行ってる。もう少しで戻ると思うんだけどな」
ふーん、と何気なく答えると、リボンの後ろに仕込まれた送受信機から聞こえるかどうかの音量で椋からの叱咤が来た。
〈お姉ちゃん、私は『ふーん』なんて言わないよ?そうですか、でしょ〉
うるさいわねぇ、と答えたいけど、そんなことを言ったら朋也に怪しまれる。というか、いつの間にどこでこんなもの手に入れたのよ、椋?
〈あ、あと、私がこの送受信機をどこで手に入れたか……ふふ……あまり詮索しない方がいいと思うなぁ〉
くすくす、と椋の笑いが聞こえた。何というか、あたしの周りだけ「夏でも涼しい!ホラーキャンペーン実施中!」な感じだった。
「そういや、柾子ちゃん元気か?」
「あ、はい。おかげさまで」
「そっかそっか。いやさ、智代って子供好きだからさ。古河のところの汐の時も、本当に目に入れても痛くないくらい可愛がるんだよな」
まったく困ったもんだな、とゼンゼン困った風ではない表情で朋也が言う。
「にしても、柾子ちゃんは誰に似るんだろうな?」
「え?」
そりゃあ、椋でしょ、と考えてから、ふと朋也の質問の意味がわかった気がした。
「お前に似てもおかしくないんだけどさ。勝平に似ても充分通用するんじゃないかなって思ってさ」
〈それはないです。勝平さん、とっても男らしいです〉
「そう……ですよね。勝平さんに似ても、女の子らしいですよね」
「そうそう。案外春原辺りが『萌え〜』とか言いだしたりして」
「それって犯罪ですよ」
あはは〜と笑う。送受信機から聞こえてくる椋の怒声はまぁ無視する。というか、椋、そんなに怒鳴ったりしたらあんた怪しまれない?
「春原で言えばさ」
ひとしきり笑った後、朋也はお茶をすすると聞いてきた。
「柊は、あいつと杏の関係、どう思ってるんだ?」
「え?妹としてですか?」
「ああ。何つーかさ、ほら、相手は春原だろ?あいつにこんな彼女できる機会って滅多にないしな。もしかするとそのまま入籍とか」
「……」
か、考えただけでちょっと顔が赤くなっちゃったじゃないっ!もう、何て事言いだすのよっ!
〈イケマセンヨー?ワタシハアンナオトコ、ミトメマセンヨー〉
椋がおどろおどろしい声であたしに告げる。だんだんスルーするのがうまくなってきている自分に気付いた。
「そ、そうですね……お姉ちゃんがいいというんだったら、私は反対しませんけど……」
〈しますっ!っていうか、今してますっ!!〉
「でもな、考えてもみろよ。あの春原が、義理の兄だぞ?」
「あはは。でも、春原君ってそんなに悪い人じゃないですよ」
〈最悪ですっ!絶対にお義兄ちゃんなんて呼ばないからねっ!!〉
「あ、もしかすると、岡崎君が芽衣ちゃんに手を出さなかったのも、実はそれが理由ですか」
そう笑って訊くと、意外にも朋也はぐっ、と呻いたきり黙り込んだ。
「……岡崎君?」
「い、いや。ほら、俺って智代一筋だし」
しどろもどろになって朋也が言うが、視線を逸らしているところが怪しい。
〈やっぱりその気があったんだね、岡崎君……〉
椋がぼそりと呟いた。
とにかく朋也は見事引っかかったと。それさえわかれば、長居は無用。あたしは突然お邪魔したことを朋也に詫びると、岡崎家を後にした。ふー、無事作戦終了
「私のいない間に人の家の旦那に粉をかけるとはいい度胸だな、見知らぬ女よ」
と思いきや、背後から刃物のごとく鋭い手刀を首の横に押し当てられてしまった。
「だがおあいにくさまだ。朋也は私の旦那様だ。いかなる泥棒猫が入ってきても、私達を別つことはできないと知れ」
「あ……と……智代……さん」
咄嗟にさんをつけた。その拍子にリボンが揺れ、智代の気配が変わるのを感じた。
「その声は……そしてそのリボン……椋、なのか?」
「あ、あはは、智代さん、痛いです」
「む。すまん」
改めて向き直ると、智代はばつの悪そうな顔で笑った。
「見知らぬものならいざ知らず、椋だったとはな」
「よくある間違いですよ。気にしないでください」
〈よくあったら困りますよ、もう〉
椋のツッコミはまたもやスルー。
「しかし丁度良かった。今椋の好きなバナナケーキを買ってきたところなんだ。上がっていかないか?」
「あ、でもたった今、お暇したところですし……」
「遠慮はいらない。急ぎのようがあるわけでもないだろう」
智代がにっこりと笑う。ううむ、この子ってこういう風に笑うから、ちょっと首を横に振れないのよね。
「じゃ、じゃあ……」
「確か好きだったな、バナナケーキ」
そう。椋は古河パンのバナナケーキが大好きだったりする。そう、智代はそのことを知っていた。
「はい、好きです。でも、本当にいいんですか」
「ああ。前に椋と話をしたときにその話題があったからな。今急いで買ってきたところなんだ」
「そうなんですか」
〈……え〉
その時、椋が小さくつぶやいた。
〈お姉ちゃん、私智代さんとそんな話してないよ?〉
……何だって?
その時、あたしは気付いた。
確かに、智代は椋の好物を知っている。でもそれは、椋から聞いたんじゃなくて
「ふむ。やはりな」
あたしが話したからだった。
「なかなか面白いことをしているな、杏」
「……いつから気付いていたの」
「最初に会った時、だな。私がお前を威嚇した時、椋からは決して発せられない何かを感じた」
「何か……?」
「うむ。何と言おうか、そうだな、防衛的殺気、とでも呼ぼうか。そういうものを感じ取った。うん、ある意味乙女のインスピじゃないか?」
それ、絶対に違うから。あたしは微笑む智代に心の中でツッコんだ。
「しかしまぁ、よく似ているな、双子なだけあって。私もその一瞬の気がなければ騙されているところだったぞ」
「そうね。渚も風子も朋也も今のところ引っかかってるわ」
「どうせ椋本人も一枚噛んでいるんだろうな。お前が妹の許可なしにこんな悪戯をするとは思えないしな」
「まぁ、そんなところね」
ふふ、とあたし達は笑うと、会釈して歩き去った。あたしが廊下の突きあたりまで来ると、智代があたしに声をかけた。
「杏」
「何?」
「朋也には、その、私が気付いたことは、その、うん」
あたしはニカっと笑った。
「心配しなさんな。朋也にはあんたが女の六感で見破ったって言っとくから」
「でも惜しかったね、お姉ちゃん」
柾子ちゃんをあやしながら椋が苦笑した。
「そうね。智代って天然だから、もしかすると引っかかるんじゃないかって思ってたけどね」
「天然であるだけじゃ、路地裏の戦線で生き残れないもんね。岡崎君とラブラブ生活にどっぷり浸かっていても、所詮狼は死ぬまで狼、ってことかな」
「そうねぇ。犬は餌で飼えるし、人はお金で飼えるでしょ?でも光坂の始末屋を飼うことは何人にもできないってことね」
じゃあどうするのか。朋也を人質に使う?いやいや。そんな甘いことで岡崎智代を言いなりにしようというのは、愚の骨頂というものだ。そもそも、朋也だって喧嘩は強いらしいし、智代関連になると暴走するかもしれないから、簡単に人質にはできない。これは有紀寧のところに集まる若い衆がいつも言ってることだ。それに加えて、智代は前よりは改善したものの、好きな物にはとことん、と結構視野が狭まることがある。その最たる朋也をどうこうしようとした場合は、それこそ自衛隊が出動でもしない限りあの子は犯人を追いつめて殲滅するだろう。一族郎党もろとも。
「でも、椋だってそうじゃないの?例えば柾子ちゃんと勝平が危険にさらされたら、なりふり構わなくなるんじゃない?」
「そうだね……私もできるだけのことはするし、やっぱりみんなに声をかけるかな。お姉ちゃんや智代ちゃん、有紀寧さんとか」
「守るべきものがあるって、すごいことよね」
ちなみに、柾子ちゃんはあたしを見ても椋からは離れようとしなかった。何というか、子供は感じて納得する、ということなんだろう。柾子ちゃんには、母親である椋と他人との境界がまだすごくはっきりしていて、見た目だけじゃ騙されないということらしい。
「あーもう、赤ちゃんなのにしっかりしてるわね」
「まぁ、私の娘ですから」
えっへんと胸を張る椋。
「でもあんたってむしろボケっ娘よね。渚とことみでトリオが組めるくらい」
「へ?」
ぽかんとした椋に、あたしは続ける。
「そう言えば、鼻眼鏡をつけただけで変装完了、って思ってたスパイさん、いたわよねぇ」
「お、お姉ちゃんっ!」
未だに恥ずかしかったのか、椋が顔を赤くして大きな声を出した。
「そ、それはその……」
「それにあたしにツッコむ時だって、ちょっとピントがずれてたり」
「ええっ!ずれてるの?!」
「あんた、自覚なかったの?」
しょげかえる椋を、柾子ちゃんが慰めるような声を出した。ああ〜ん、かわい〜んだから。
「さってっと。いよいよここから本番よね」
腕まくりをして、手をパチンと叩き合わせた。
「本番?」
「そ。次は勝平戦よ、椋」
「だっ、ダメだよお姉ちゃん、お姉ちゃんが勝平さんと……本番なんて……」
顔を赤く染め、目に涙を浮かべる椋。何を考えているんだか。
「そりゃあ勝平さんは優しいし、カッコいいし……結構大きいしすごくうまいし……でも、いくらお姉ちゃんでも……」
「いや、別にあんたらの夜の生活まで侵害しようとは思わないから」
こういうところがボケてると言っているのに、この子ったらねぇ……軽い頭痛を感じつつ、あたしは諭すように言った。
「ほら、変装作戦よ変装。勝平に果たしてあたし達双子の見分けがつくかどうか、試してみるんじゃない」
「……あ、そっちの本番」
「そうよ。ナマ言ってないで、あんたも考える」
「ナマって……本番ナマなんだ……」
「だーかーらーっ!ちっがーうっ!!」
いつの間に椋ってこんなになっちゃったんだろう。絶対に柾子ちゃんの教育に望ましくない気がする。お姉ちゃん悲しい。
「まずは柾子ちゃんよね。柾子ちゃんはあたしが抱いても泣きだしちゃう可能性があるわ。そうなったら一発でばれちゃうでしょ」
「そうだね。柾子はお母さんっ子だしね」
「だから柾子ちゃんはあんたがずっと腕に抱えてるの」
「でもお姉ちゃん、勝平さん、帰ってきたらいつも私と柾子に挨拶するよ?それがなかったら、ちょっと不自然じゃないかな」
こくこく、と柾子ちゃんが頷く。わかってるのかなぁ、話してること。
「そう。だからね、最初はあんたと柾子ちゃんが勝平を出迎える。で、しばらくしたら子供部屋に柾子ちゃんを連れていくの。そこであんたは待機」
「そこで入れ替わるんだね」
椋がふふ、と笑った。
「そう。そして頃合いを見計らって二人で登場、ってなわけ」
「……いいね。いいかも、それ」
うんうん、と椋が頷く。そして笑いが漏れる。
「……うふふふ……勝平さん……もし見分けがつかなかったら……ふふふふふ……」
逃げてー。勝平逃げてー。
「へぇ、もう寝ちゃうんだ、柾子ちゃん」
勝平の声が玄関の方から聞こえた。
「そうなんです。お昼の時に結構元気に遊んでましたから」
「あはは。元気なのはいいことだよね」
週末なので、勝平が帰ってきたのはちょうど午後のお茶ぐらいだった。確かに柾子ちゃんがおねんねするには早い気もするけど、その半面午後のお昼寝とも言える。案の定、勝平はさほど怪しまずにいるようだった。
「じゃ〜ね〜、柾子ちゃん。あとでパパと遊ぼ〜ね〜」
「あだ〜」
どうやら柾子ちゃんを抱いて頬ずりしているようだ。この口調、誰かに似てるなぁ、と考えてから、ふと笑いがこみあげてきた。
「何だ、うちのパパじゃない」
昔はパパもあんなんだったんだろうか、なんて考えるまでもない。いつまで経ってもパパは親馬鹿なところがある。恐らくあたしがお嫁に行っても、帰ってくる度に「杏ちゃぁ〜ん、パパといっぱいお話しよ〜よ」とか言って抱きついてくるに違いない。
お嫁、ね。さっきの話題を思い出して、あたしは少し考え込んだ。考えないわけでもないけど、まだ少し早いと思う。でもまぁ、あたしも陽平もそれなりにお互いのこと知ってるし。
「お姉ちゃん、出番だよ」
不意に椋が部屋に入ってきた。あたしはにかっと笑うと、よっしゃ、と小さく掛け声をあげて子供部屋を出た。
「ところで勝平さん、お茶にしませんか」
「うーん、そうだね。でも僕、実はお昼まだなんだ」
……むむむっ。ここで予想外のハプニング。でも椋なら、椋ならきっと何とかする、はず。
「じゃあ、軽く何か作りますね」
「そうしてくれるととっても嬉しいよ。あ、でも」
「でも?」
勝平は苦笑いを浮かべて言った。
「あんまり難しいものに挑戦しなくてもいいからね。いつもので大丈夫だから」
「……?大丈夫ですよ、任せてください」
そう言ってあたしは台所に立った。椋のところでは前にも料理を手伝ったりしたことがあるので、さほど戸惑うことはない。適当な材料で簡単な物を、と考えているうちに、それはできた。
「はい、勝平さん」
「あ、ありがとう、椋さん」
そう言ったものの、勝平はあたしの作った料理をじっと見つめていた。
「どうかしたんですか、勝平さん」
「あ、いや、おいしそう、だね……」
そう言って、勝平はじっくりとそれを見た。どことなく猜疑心を感じる視線だった。やがて勝平は箸をとると、シーチキンサラダを少しつまんで口に入れた。次の瞬間、勝平は目を見開き、唸り、体を硬直させた後、呟いた。
「……違う」
「違う?」
「君は何者だ?君は椋さんじゃないっ!」
「え?」
「こんなに料理がおいしそうで、そしておいしいなんて、君は椋さんじゃないっ!」
「勝平さんっ!!」
バタン、と後ろの扉が開かれて、椋が仁王立ちした。
「わああっ!椋さんが二人っ!!」
「ひどいですっ、勝平さんっ!私だって、私だって頑張ってるのにっ!!」
「い、いや、ほら、でも頑張りすぎると時々とんでもない、じゃなくてとっても個性的な作品ができるからさ……」
「でも、外見とかそういうのじゃなくて、料理でしか私とお姉ちゃんを見分けられないなんて……」
「えっ、君は杏さんなのっ?!」
「私、お嫁さん失格です……」
よよよ、と泣き崩れる椋に、ジト目を父親に向ける柾子ちゃん。そしてあたふたする勝平を見ながら、あたしは深いため息をついた。
結局、あたしが椋に料理をみっちり仕込み直すということでその場は一応一件落着した。ちなみに料理と仕込み直すってダジャレで言ったつもりはないから。パパじゃあるまいし。
「さてと。いよいよこの実験も最終テストね」
あたしは公園の中心で仁王立ちしながらそう呟いた。ついさっき、あたしは陽平に電話をかけたのだった。椋がちょっと相談したいことがあるから、ちょっと会ってくれないだろうか、と。果たして馬鹿でアホでアンポンタンな陽平君は、自分のラブリーな彼女とその妹の見分けがつくのだろうか。
「って、何であたし思いっきり陽平の頭の悪さを指摘してるのよ……」
口にしてから少し鬱になった。特にそれが度の過ぎた冗談ではなくて、実際のことであるのにさらに凹む。
「で、でもまぁ、関係ないか。陽平の可哀そうなところも全部理解してあげてこその彼女じゃないの。うん、頑張るわよ、杏!」
自分にエールを送っていると
「やあ、待たせちゃったね、椋ちゃん」
小走りに陽平がやってきた。
「こんにちは、春原さん。ちょっといいですか」
「うん、相談したいことがあるんだって?」
「ええ。こっちのベンチに座りませんか」
そう言って、白く塗られたベンチを指差した。そこに腰掛けた途端、あたしの予想していないことが起きたのだった。
「で、話って何、杏?」
「ええ、それでですね……って、え?」
あたしはまじまじと陽平を見た。
「や、やですよ、春原君、私とお姉ちゃんを間違えないでください」
「うん、僕、杏と椋ちゃんの違いはわかってるんだ。だからここにいるのが杏だってわかってるんだ」
そう言って、陽平はあたしの短くなった髪を撫でた。
「切っちゃったんだ。もったいないね。杏の髪の毛好きだったんだけどな」
「え……あ……」
「でも、これから暑くなるしねぇ。長いと大変か」
「……うん……」
「でもさ、それでもあれだね、杏ってショートも似合うね」
そう言われて、あたしはかあっと頭が沸騰するのを感じた。
「ほ、ホント?」
「ホント。あ、一応聞いとくけどさ、椋ちゃんの許可は得てるんだよね?」
「当たり前よ。あたし達二人で考えた悪戯なんだもの」
「そっか……なるほどね」
陽平が悪戯っぽく笑うのを見て、あたしはすっと伸びあがり、その頬に軽くキスした。
「陽平」
「な、何、杏」
ほっぺにキスだけで慌てる陽平がおかしかった。もうあーんなことやこーんなことまでしてるのに。
「ありがと」
「え、えと、どういたしまして、なのかな?それとも、こっちもありがとう、なのかな」
しどろもどろになる陽平の頬に手を添えて、あたしは再度目を閉じた。
「ねぇ陽平」
「……ん?」
「どうしてあたしだってわかったの?」
「えと……あー……その」
「?何、どうしたの?」
「……その、やっぱあれだね、ステータスというか、希少価値というか」
「は?」
「僕は杏のガッカリおっぱいの方が好きってちょっと待ってオーケー落ち着こう落ち着いて話し合おうよ杏まずその辞書をぐべあはktvへdjふじk」
あーあ、台無し。